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”天国と地獄”は、どの宗教にあっても、救いと教えであって、説教では、現世の所業の善悪で決まるとか。悪は心から悔い改めなければ、そのまま評価(?)されて、没後は地獄へ直行する由。
宗教哲学的なことは宗教学者や牧師・坊さん(森首相なら神主か?)に委ねることとしても、最近の世相では、地獄からの使者が多くなったのか、眼を覆うような毎日のように報じられる残酷な新聞記事・事件が連続し、閻魔堂の壁画の”地獄絵”の将に現代版さながらなのであります。
”地獄絵”を見たこともなく、見せられたこともなく、”閻魔堂”も”地獄絵”のあることも知らず、死後の世界で裁かれることも知らず、全く無関心な輩が多くなってしまいました。その為か、無軌道に悪の道をひた走る人生模様があちこちに展開されているのが頷づかれます。
ほとんどの教師は”情操教育”に何の関心もなく、教育長さえもタダのサラリーマン化し、教育長もOBともなれぽ、前言の取り消しも約束の破棄も詐欺まがいの行為もへイチャラで守銭奴と化し、選挙にうつつを抜かす世の中。親は子の”躾”を忘れてしまい、叱りつけることもしないで只甘やかすだけの無責任で子供の将来も考えない育て方に終始しています。それでいて、何をか論じられましょうか?
さて、それなら私は、果して天国に行けるのでしょう?
描き実行してきた福祉の夢を、試行錯誤し、右往左往し、ひたすら追いかけてはいるものの齢・己に○○、福祉に捧げ尽くしてようやく終着駅に辿りつき、燃えつきてしまいたいと思うことしきり。その果て、夢の覚めないままに、煉獄を足早に通って、ダンテの神曲が奏でられ・花園がつづき・小鳥が囀り、常春の天国の片隅にでも行きたいものと祈る私の姿は、単なる欲張りにすぎないのでしょうか?
---陰の声・天国は無理無理・閑話体題・反転----
一〇六才まで永生きをして、二五番目のガールフレンドに看とられた(うらやましい限り)国文学者・物集高量先生のように、”―〇〇才をすぎての言チ○ポがバナナの房のように沢山にあれば、後略”それでも先生は天国へ旅立たれたとか。
私も亦、残り少ない人生を先生にあやかって、福祉以外の世界では、男らしく・艶のたっぷりある明るくて、楽しい人生でありたいと思うことしばしです。
そんなことを考えるようであれば、所詮、私の天国行きは無理で、煉獄でウロウ口するか、地獄の業火に焼かれるのが”オチ”か。
七三翁
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