残 照 

 

 車で―時間足らずの所に暮らしていながら十和田市には来たことがなかった。今、美し
い駒街道を毎日通勤しながら、以前にもこんな道を歩いたことがあることを思い出してい
る。
 もう六十年程前の秋の丁度今頃であった。昭和十四年か、皇紀二千六百年(当時はそう
呼んでいた)旧制八戸中学校三年生で今の国体の前身である明治神宮体育大会に青森県代表として参加したときである。当時の代々木練兵所に集合し明治神宮を参拝し明治神宮外苑の陸上競技場進行進、秩父宮殿下の御言葉を戴いて開会式を終了したが、その途中の街路である。青山学院の傍を通った記憶があるから現在で言えば青山通りなのだろうか。試合は「バスケットボール」―回戦で強豪大連二中と対戦し出ると負けであったが、その後約―週間程毎晩当時の国民体育会館で行われていた大学リーグ戦を観戦させられ、当時の―流選手の技量を目の当たりにして、目から鱗の経験をさせて貰った。当時の部長は黒田三十朗という数学の先生であったが此の為か翌年には、郷里の山形へ転勤となられたのが残念であった。中学卒業後浪人生活をするが駒込の下宿で同宿したのが先生の奥さんの弟であったのも奇遇であった。
 此の経験が私の競技生活に与えた影響は大きく、大学選手の物真似を繰返し練習した御陰で中学卒業後も全国高等専門学校大会では決勝戦進進出できたし、全日本選手権大会にも東北代表で、参加することが出来、望外なことには―勝あげることが出来た。
相手は北海道代表であった。
 此の頃は旧制中学校は新制高校になっており、後輩と―緒に練習することが多かった。
後輩達はインターハイで二度も準決勝に進出する偉業をなしとげた。その当時の選手のなかには、作家の三浦哲郎、参議院議員の田名部匡省、元参議院議員の松尾官平がいる。
 駒街道は残照にひとしおの輝きを増してくれるものと考えている。

施設長 横澤 宗治